こんにちは。人づくり推進室の濵本です。まだまだ寒い日が続きますが、お身体いかがでしょうか。今回は、1年を通して数多くの祭礼・行事が斎行されます、播州三木大宮八幡宮を紹介します。
ご由緒
応神天皇を御主座に両側に八柱の神を配祀奉る、近隣稀に見る大社です。創建は定かではありませんが、古代より山上(現八量敷)に磐境(古代祭祀様式)があり、人皇第三十六代孝徳天皇の御代に既に山上に社祠が建立されており、美嚢郡(ミナギノコオリ)高野里(タカヌノサト)の祝田社(ハフリタノヤシロ)と称し祀られていました。〔『播磨国風土記美嚢郡の段』見出〕その後、天永二年(1111年)鳥羽天皇の御代、別所氏の祖頼清によって創建され、代々の城主が守護神と崇め祀りました。
室町時代となり織田信長の天下布武により、中国の豪族毛利氏平定の総大将羽柴秀吉と戦った別所氏は、三木城に籠城して周辺の山野に布陣したが、天正八年(1580年)、別所氏が亡んだときに、兵火によって社殿ならびに諸記録はことごとく消失しました。その後、三木を領した中川右衛門太夫秀政が天正十一年九月十三日(現例大祭日の起源)に社殿を再建造営しました。
慶長八年(1603年)には、姫路城主池田左衛門輝政は家老伊木長門守を使わし、川原の田畑および境内の山林竹木を黒印をもって寄進し、社殿を現在の地に移しました。元和五年(1619年)、小笠原右近太夫忠政は本殿と諸建築物を修理し、黒印社領を寄附し、当時拡張された境内の広さは七万余坪もあり、東播磨随一の大社として近郷に知られるようになりました。徳川三代将軍家光は、朱印領を寄進し、歴代将軍も山林竹木諸役を免除し社殿を安堵されました。現在の兵庫県地域において、江戸時代、御朱印社領七十石以上安堵の神社は当宮以外にわずか2社のみでありました。
明治初期には郷社に列せられ、平成六年には本殿を後方に引き、その前に両翼殿を備える拝殿を建造する大造営を行い、四方の崇敬厚く現在に至っています。
例大祭(秋祭り)
播州三大祭りの一つに数えられる当宮の例大祭は、本来は十六日に行われていたが現在では毎年スポーツの日の直前の土曜日・日曜日に斎行されます。 例大祭日は当時三木を領していた中川右衛門太夫秀政が社殿を再建造営した天正十一年(西暦一五八三)九月十三日(旧暦)を起源としていると伝えられています。
例大祭には、毎年氏子の中より選ばれた女児が浦安の舞を奉納し華を添え、例大祭斎了後直ちに神幸の儀が斎行され御神輿に御霊代を奉遷。 そのころ、八十五段の急な石段を登り宮入した各町の屋台は拝殿前で双手を捧げて御神輿をお迎えします。氏子の中より選ばれた男児が御神輿を捧與し、猿田彦神の先導のもと、 町内より選ばれた役員達が御神宝を捧持し威儀を正し厳粛に氏子町内を御神幸します。御神幸は大神様と氏子が親しく交われる年に一度の機会です。 氏子町内を御神幸した御神輿は、高木にある御旅所にて一夜を過ごされ、翌日再び氏子町内を御神幸した後、各町の屋台に見送られ本殿に御鎮まりになります。
この秋祭りの時には広い境内も参拝者と屋台の担ぎ手でいっぱいになり、屋台の宮出宮入の壮観さは近郷に類なくその勇壮な姿に圧倒されます。
最後に
「播州三木大宮八幡宮」の近くのお店は、ヤクルト三木ステーションです。21名のスタッフが、「地域のみなさまのために、全員で前を向いて一致団結」をモットーに、毎日楽しくワイワイとにぎやかに過ごしているステーションです。「仲間を思いやる心」「仲間に対する感謝の心」を持っているので、ステーションはあたたかい雰囲気に包まれています。お近くにいらしたときは、ぜひのぞいてみてくださいね。
スポット詳細
「播州三木大宮八幡宮」
住所:〒673-0431 兵庫県三木市本町2丁目19番1号
電話番号:0794-82-0401
ホームページ:http://www.miki-oomiya.net/
ヤクルト三木ステーション
住所:〒673-0423 兵庫県三木市宿原919-1
電話番号:0794-82-1048
ホームページ: https://www.hyogo-yakult.jp/